(6冊目・後編)「幸せになる勇気」岸見一郎 古賀史健 内容紹介

2021年4月1日

(6冊目・前編)「幸せになる勇気」岸見一郎 古賀史健 内容紹介←こちらのブログの続きです

前編では第1章の内容を順を追って語ったが、後編では、2章~3章までの内容を語ろうと思いました。
ここまででも十分本書の魅力は伝わると思ったからです。
しかし、4章からの内容は、本書を手に取るか、なにかの媒体を使って読んでもらうしかありません。

ぜひ続きを読んでもらいたいと僕は心から願います。

(6冊目・後編)嫌われる勇気続編「幸せになる勇気」岸見一郎 古賀史健 (ネタバレ内容紹介ブログ)

青年はアドラーを批判したいのではない。あまりにもアドラーの空論が現実離れしているので、人々の生きる大地にひきずり下ろしてやりたいのである。
ここで次に哲人先生は、「生徒は叱ってもいけないし、褒めてもいけない」という話をします。まず第一に、生徒たちは自分の行いが罪になるのかを知らない。
だからわれわれ大人たちのやるべきことは「教える」ことだというのです。
しかし青年は「人間を甘く見すぎている、子供たちの問題行動は確信犯ですよ、小学生、さらに中学生ともなれば、何が不道徳とされているか、とうの昔に知っている」と指摘する。

その返答に対して哲人先生はこう言うのです「親や教師からよくないことだとわかった上で、問題行動を起こしているのです、叱られるから、問題行動を起こすのです」

子供たちの問題行動は、そこに隠された目的があると言います。これは、5つの段階に分けて説明できます。

・第1段階 「称賛の要求」

これは親や教師に向けて、またその他の人々に向けて「いい子」を演じる。組織で働く人間であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。
それによって褒められようとする。入口はすべてここです。

なぜこれが問題行動になるのか?「共同体のなかで特権的な地位を得ること」「ほめてもらうこと」を目的としているからです。
彼らは、褒められなければ不満を抱き、場合によっては怒ります。
彼らは「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動はしない」「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。

・第2段階 「注目喚起」

「いいこと」をしたのに褒められない。「ほめられること」をやり遂げるだけの勇気や根気が足りない。
そういうときは「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。

もはや彼らは、褒められようとは思いません。とにかく目立つことだけを考えています。ただ、ひとつ注意していただきたいのは、この段階の子供たちの行動原理は「悪くあること」ではなく「目立つこと」だというところです。

簡単に言えば、地位を得たい「居場所が欲しい」、という真の目的を持っています。
「いたずら」によって注目を集めたり、教師をからかったり、しつこく食い下がったり、決して大人たちの逆鱗に触れるところにまでは踏み込まず、学級の道化的な人気者として、愛されることも少なくありません。
また、消極的な子供たちは、学力の著しい低下を示したり、忘れ物を繰り返したり、泣いたりすることによって注目を得ようとします。
「できない子」としてふるまうことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけです。
彼らの願いは、たとえ叱られても、存在を認めてほしいということです。

・第3段階 権力争い

誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。特権的な地位を得ようとする。かなり手ごわい段階です。
一言でいうなら「反抗」です。親や教師を口汚い言葉でののしって挑発する。癇癪を起こして暴れることだってあります。万引きや喫煙なっど、平然とルールを破ります。

ルールを破る、人の言うことを聞かないことによって自らの「力」を証明したいのです。

彼らが法に触れる問題を犯したときは法に従った対処が必要です。しかし、それ以外の権力争いを察知したときには、すぐさま彼らのコートから退場する。
叱責することも腹立たしそうな表情をするだけでも、権力争いのコートに立ってしまうのだと考えてください。

・第4段階 復讐

権力争いに挑んだのに、歯が立たない。勝利を収めることができず、特権的な地位を得ることもできない。相手にされず、敗北を喫してしまう。
そうして戦いに敗れた人は、いったん引き下がった後に「復讐」を画策します。
かけがえのないわたしを認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をするのです。

彼らの目的は「わたしを憎んでくれ、憎悪という感情の中で、わたしに注目してくれ」という願いを叶えることです。

第3段階では、親や教師に反抗し、学級の中でちょっとした「英雄」になれる可能性があります。大人(権威)に立ち向かう勇気を称えられて。
しかし復讐の段階に突入した子供たちは誰からも称えられることはありません。級友からも憎まれ恐れられ、徐々に孤立していきます。それでもなお「憎まれている」という一点でつながろうとするのです。

「復讐」の段階にある人は「ひたすら相手が嫌がること」を繰り返すのです。わかりやすい例としてストーカー行為は、典型的な復讐です。
自分のことを愛してくれなかった人に対する、愛の復讐ですね。ストーカーする人は相手がそれを嫌がるとわかった上でそうしています。
そしてそれを通じて仲良くなれないことも知っています。それでも「憎まれる」ことによって、なんとかつながろうと画策するのです。

あるいはまた、自傷行為や引きこもりも、「復讐」の一環なのだと考えます。
自らの価値を毀損(きそん)していくことで「こんな自分になってしまったのは、お前のせいだ」と訴えるのです。
当然親御さんは心配します。胸を引き裂かれるような思いに駆られるでしょう。子供たちにしてみれば、復讐は成功していることになるのです。

この第4段階を救うには、第3者に助けを求める他ありません。たとえば学校の外にいる人間、または専門家に頼るしかないでしょう。

・第5段階 無能の証明

「特別な存在」として扱われようと、ここまでさまざまな策を講じてきたものの、どれもうまくいかない。
親も教師も級友も、憎むことさえしてくれない。学級にも家庭にも、自分の「居場所」を見いだせない。あなただったらどうしますか?

諦めて、なんの努力もしなくなりますよね?

でも、親や教師は、あなたにもっと勉強するように説教したり、学校での態度や友達関係について、ことあるごとに介入してくるでしょう。
無論、あなたを援助しようと思って。

そしてあなたは最後にはこう言うでしょう「これ以上わたしに期待しないでくれ」と。これが「無能の証明」です。

この状態に入れば、物事に取り組む前に「できるはずがない」とあきらめてしまいます。
「無能なのだから、課題を与えないでくれ、自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。

やがて自分でも「なにもできないわたし」を信じ込むようになる。

彼らの願いは「なにも期待しないでくれ」「私にかまわないでくれ」「私を見捨ててくれ」なのです。精神疾患を疑われる状態はまさにこの状態だと言えます。
ここまできたら、専門家に頼るしかないでしょう。もっとも、この状態に入ってしまったら、専門家にとっても、援助していくことはかなり困難な道です。

誤解をされてはいけないので言っておきますが「僕は馬鹿だから」と自ら宣言している人は、第5段階の無能の証明ではありません。

問題行動の大半は、第3段階の「権力争い」にとどまっています。そこから先に踏み込ませないためにも、教育者に課せられた役割は大きいのです。

 

・私であることの勇気

問題行動に走る目的、それは私が「その他大勢」にならないこと。
自分だけの居場所、なにかに所属している状態を確保するためです。
「ここにいてもいいんだ」という所属感に、揺らぎがあってはならないのです。

青年はここで言います「それならば『きみは不完全な存在じゃない、きみには価値があるんだと伝えていく!!』それ以外に道はない!」と

しかしそれは違うのだと哲人先生は言います

「承認には終わりがないのです。他者から褒められ、承認されること。これによってつかのまの『価値』を実感することはあるでしょう。しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです」

「私」の価値を、他者に決めてもらうことを「依存」と言います。一方、私の価値を自らが決定すること、これを「自立」と言います。

・「私はその他大勢である」ということを受け入れる

もしあなたが「お前はどこにでもいる平凡な人間だ」と言われたら、侮辱に感じるかもしれません。
しかしもしそう感じたならば、あなたはまだ「特別なわたし」であろうとしているのでしょう。それゆえ他者からの承認を求めている。
つまり注目喚起に走ったり、称賛を求めたり、いまだ問題行動の枠内に生きている。

いいですか?「人と違うこと」に価値を置くのではなく「私であること」に価値を置くのです。
それがほんとうの個性というものです。
もしも他者と自分を引き比べ、その違いばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。

・幸せになる勇気を持ちえてない君へ

青年は言いました。
「わかりました。自立とは、自らの価値を決定することである。一方、自らの価値を他者に決めてもらおうとする態度、すなわち承認欲求は、ただの依存である。そうおっしゃるのですね?」

哲人先生はこう返します

「そうです。自立という言葉を聞いたとき、それを経済的な側面ばかりから考える人がいます。しかし、たとえ10歳の子供であっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる、自立とは精神の問題なんです」

ここで青年は納得のいかない様子で

「哲学に終わらせず、この書斎の外、特に私の教室で通用する、実学まで落とし込まなければ納得できません」と食い下がります。

哲人先生はこう返答します

「一人の友人として申し上げます。あなたは今日、ずっと教育の話をされているが、ほんとうの悩みはそこではない。あなたはまだ、幸せになれていない。『幸せになる勇気』を持ちえていない。そして、あなたが教育者の道を選んだのは、子供たちを救いたかったからではない。子供たちを救うことを通じて、自分が救われたかったのです

青年「なんですって!?」

哲人「他者を救うことによって、自らを救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは一般に『メサイヤ・コンプレックス』と呼ばれています」

青年「ふざけるな!!」

哲人「大切なのはここからです。不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰一人として幸せにしません。実際、あなたは子供たちの救済に乗り出しながら、いまだに不幸のただなかにいる。自分の価値を実感することだけを願っている。だとすれば、これ以上教育論をぶつけ合っても意味がない。

まずは、あなたが自らの手で、幸せを獲得すること。そうしないことには、ここでの議論はすべて不毛な、ただの罵りあいに終わりかねません」

青年「この議論が不毛だと!?」

哲人「もしもあなたが、このまま『変わらないこと』を選ぶのなら、私はその決断を尊重します。今の自分のまま、学校に戻ればいいでしょう。しかし、もしも『変わること』を選ぶとすれば、その日は今日しかありません」

『これはもはや仕事や教育を超えた、あなたの人生そのものを問うテーマなのです』

 

今回はここで終わります。次回の読書ブログもお楽しみに(#^^#)

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